2010年10月21日木曜日

オオマリコケムシ

佐賀県でデカいゼリー状の生き物が大量発生!
その名をオオマリコケムシという。

ぶよぶよで、人の頭くらいの球状や、1メートルくらいの円筒形(ヒエー!!)とサマザマな形態をしているらしい。
映画『ゴーストバスターズ』とか『ドラクエ』とかに出てきそうだ。
キモチワルイが、気になり、いろいろ調べてみる…。(結局、私はこういうキモイものが好きなんだ…)

なんとこのコケムシで料理をして食べた人たちがいる。

虫フードファイターの佐々木孫悟空さん
宮城県水面水産試験場の職員さん

いや…絶句。素敵な方たちです。

きっと人類はじめてナマコやホヤを食べた人って、こういう人なんだろうな。
いままで想像がつかなかったけど、①と②の人たちを知って、妙に納得できました。

私は料理するのは嫌ですが、毒じゃないなら試食はいつでもしますよ。

2010年10月7日木曜日

『憾』①

全音のピアノピース、という一曲ずつ小分けにした楽譜がある

その中の滝廉太郎の 『憾』という楽譜買う。

わが家のあべ氏は、滝廉太郎の映画が好きで、その中でこの『憾』という曲が出てくる。面白いので、買って弾いてみたが、これが不思議な曲。

『憾』は、滝廉太郎の遺作 だが、未完成の曲である。
だから弾いてみると、拍子というかリズムがいまいち変で、弾きずらい。
未完成なのだし、とひらき直って、弾き易い様に変えてしまった。

スポイルする

で、駄々っ子なので仕方なく、いろいろ甘やかす。

ウィスキー飲んで痛さを麻痺。後は一人でぼさっとさせてもらう。
病院を予約する。

少しなんとかなりそうな気がしてきた。
土曜日まで持ちこたえてくれ。

2010年10月6日水曜日

駄々っ子

この1ヶ月くらい腰から頚椎の痛みが続きます。

今日はコールセンターのバイトで、通話しながら、イライラが鎮まらない。
つい口調がきつくなる。
痛いと、本当に嫌な人間になります。トホホ。

たぶん私が、こらえ性がなくワガママなんだと思う。
 痛みを訴えない人も世の中にいるのに、自分は恥ずかしいと思いつつ、
「痛い痛い」と言ってしまう私。

同じ痛みでも、感じ方や消化の問題だと思うのです。

駄々っ子はいつ成人するのでしょう。

2010年9月15日水曜日

窓の外の楽しみ

8月くらいからずっと、アパートの外で虫の音がする。

アパート裏の、細い細いスペースにいるのだろう。
あんな小さいスペースでn、けっこういろんな虫の音がする。

本当に涼しい、秋らしい音である。

家でぼーっと座って、耳を傾けるのが楽しい。

虫の音と、雨の音、風の音。
最近心待ちにしている音。

2010年9月13日月曜日

福岡の巨峰、呉羽山の梨

果物好きではないけど、食べてみたくなる味がある。

子供の頃住んだ土地の果物。

例えば巨峰は、福岡にいた頃の巨峰が一番好きだった。甘いだけでなく巨峰の味がする。
今は東京在住の為、長野や山梨、東北のぶどうしか食べられない。こっちの巨峰は、ちょっと味が違う。


マスカットも岡山のものが食べたい。いちばんマスカットらしい気がする。東京で売っている緑のぶどうは、マスカットの味じゃない気がする。


梨も、富山にいた頃は呉羽山という、小さな山で採れる梨 をよく食べた。
幸水や豊水も甘くておいしいのかもしれないけど、梨らしい味に欠ける。二十世紀はやや許す。
富山の果物は全体に、地味だけどそのもの本来の味がする。
果物はお菓子じゃないんだから、あまり甘さばかり追求しないでほしいな。


こないだ富山の梨をもらって、本当にあの味がまだしているからびっくりした。

2010年9月7日火曜日

膨大な時間

西大寺に大事な曼荼羅やら御正体を入れる厨子がある。
大事なもんだから、きれいな裂が着いている。

羯磨文様錦戸帳という名前で赤地のと白地のとがある。
博物館でみたこともあるし、しょっちゅうこれに関する説明をする。
最初から好きなものではないが、だんだん好きになってしまった。

この裂は織物なんだが、現代の技術では復元不可能(10年前の情報ですが)。蓮の華と法具を織り出している
。裂に付属している飾りも、ものすごい製作時間と技術がかかっている。

これの色合いは、ちょっと今の時代では考えられない色合い。どんくさい色合いなんである。

個人的に好みか?と訊かれるとそうでもない。
神様をおまつりするのに、こんなに華美なものは、本意から逸れている、と私は考える方である。

だけど、だんだんこいつが好きになってしまった。

大概復元不可能なものというのは、別に未知の不思議な力を使ってなんかいない。
ものすごい膨大な時間と、手間と犠牲でなりたっている。
その概念が現代にはないから、復元は不可能だと、私は思っている。
別に不思議な事をしているのではないのである。

(もちろん私は叶うべくもないけれど、)
でも私も謙虚な心で、膨大な時間や手間をかければ、何かひとつくらいできるのだ、という気持ちを与えてくれる。
製作者個人の存在 や、出資者の存在、そんなものは千年の間に消失し、この戸張だけがある。
彼らは、小さき花の様に、もうどこかへ行ってしまった。

こういう膨大な気分を持ってみたい。
そんな風に感じたらこの戸帳が好きになった。

日本の仏像や美術を毎日観なくてはならず、
10年くらい前には、私は若すぎて、吐くくらい嫌になった事があった。
割に信心深い方ではある自分が吐くなんてびっくりした。若すぎたんだと思う。

別に今も畏敬の念を、人間の製作したものには抱かないけれど、
それができるまでを思うと、かなりぐっと好きになる。