8月くらいからずっと、アパートの外で虫の音がする。
アパート裏の、細い細いスペースにいるのだろう。
あんな小さいスペースでn、けっこういろんな虫の音がする。
本当に涼しい、秋らしい音である。
家でぼーっと座って、耳を傾けるのが楽しい。
虫の音と、雨の音、風の音。
最近心待ちにしている音。
2010年9月13日月曜日
福岡の巨峰、呉羽山の梨
果物好きではないけど、食べてみたくなる味がある。
子供の頃住んだ土地の果物。
例えば巨峰は、福岡にいた頃の巨峰が一番好きだった。甘いだけでなく巨峰の味がする。
今は東京在住の為、長野や山梨、東北のぶどうしか食べられない。こっちの巨峰は、ちょっと味が違う。
マスカットも岡山のものが食べたい。いちばんマスカットらしい気がする。東京で売っている緑のぶどうは、マスカットの味じゃない気がする。
梨も、富山にいた頃は呉羽山という、小さな山で採れる梨 をよく食べた。
幸水や豊水も甘くておいしいのかもしれないけど、梨らしい味に欠ける。二十世紀はやや許す。
富山の果物は全体に、地味だけどそのもの本来の味がする。
果物はお菓子じゃないんだから、あまり甘さばかり追求しないでほしいな。
こないだ富山の梨をもらって、本当にあの味がまだしているからびっくりした。
子供の頃住んだ土地の果物。
例えば巨峰は、福岡にいた頃の巨峰が一番好きだった。甘いだけでなく巨峰の味がする。
今は東京在住の為、長野や山梨、東北のぶどうしか食べられない。こっちの巨峰は、ちょっと味が違う。
マスカットも岡山のものが食べたい。いちばんマスカットらしい気がする。東京で売っている緑のぶどうは、マスカットの味じゃない気がする。
梨も、富山にいた頃は呉羽山という、小さな山で採れる梨 をよく食べた。
幸水や豊水も甘くておいしいのかもしれないけど、梨らしい味に欠ける。二十世紀はやや許す。
富山の果物は全体に、地味だけどそのもの本来の味がする。
果物はお菓子じゃないんだから、あまり甘さばかり追求しないでほしいな。
こないだ富山の梨をもらって、本当にあの味がまだしているからびっくりした。
2010年9月7日火曜日
膨大な時間
西大寺に大事な曼荼羅やら御正体を入れる厨子がある。
大事なもんだから、きれいな裂が着いている。
羯磨文様錦戸帳という名前で赤地のと白地のとがある。
博物館でみたこともあるし、しょっちゅうこれに関する説明をする。
最初から好きなものではないが、だんだん好きになってしまった。
この裂は織物なんだが、現代の技術では復元不可能(10年前の情報ですが)。蓮の華と法具を織り出している
。裂に付属している飾りも、ものすごい製作時間と技術がかかっている。
これの色合いは、ちょっと今の時代では考えられない色合い。どんくさい色合いなんである。
個人的に好みか?と訊かれるとそうでもない。
神様をおまつりするのに、こんなに華美なものは、本意から逸れている、と私は考える方である。
だけど、だんだんこいつが好きになってしまった。
大概復元不可能なものというのは、別に未知の不思議な力を使ってなんかいない。
ものすごい膨大な時間と、手間と犠牲でなりたっている。
その概念が現代にはないから、復元は不可能だと、私は思っている。
別に不思議な事をしているのではないのである。
(もちろん私は叶うべくもないけれど、)
でも私も謙虚な心で、膨大な時間や手間をかければ、何かひとつくらいできるのだ、という気持ちを与えてくれる。
製作者個人の存在 や、出資者の存在、そんなものは千年の間に消失し、この戸張だけがある。
彼らは、小さき花の様に、もうどこかへ行ってしまった。
こういう膨大な気分を持ってみたい。
そんな風に感じたらこの戸帳が好きになった。
日本の仏像や美術を毎日観なくてはならず、
10年くらい前には、私は若すぎて、吐くくらい嫌になった事があった。
割に信心深い方ではある自分が吐くなんてびっくりした。若すぎたんだと思う。
別に今も畏敬の念を、人間の製作したものには抱かないけれど、
それができるまでを思うと、かなりぐっと好きになる。
大事なもんだから、きれいな裂が着いている。
羯磨文様錦戸帳という名前で赤地のと白地のとがある。
博物館でみたこともあるし、しょっちゅうこれに関する説明をする。
最初から好きなものではないが、だんだん好きになってしまった。
この裂は織物なんだが、現代の技術では復元不可能(10年前の情報ですが)。蓮の華と法具を織り出している
。裂に付属している飾りも、ものすごい製作時間と技術がかかっている。
これの色合いは、ちょっと今の時代では考えられない色合い。どんくさい色合いなんである。
個人的に好みか?と訊かれるとそうでもない。
神様をおまつりするのに、こんなに華美なものは、本意から逸れている、と私は考える方である。
だけど、だんだんこいつが好きになってしまった。
大概復元不可能なものというのは、別に未知の不思議な力を使ってなんかいない。
ものすごい膨大な時間と、手間と犠牲でなりたっている。
その概念が現代にはないから、復元は不可能だと、私は思っている。
別に不思議な事をしているのではないのである。
(もちろん私は叶うべくもないけれど、)
でも私も謙虚な心で、膨大な時間や手間をかければ、何かひとつくらいできるのだ、という気持ちを与えてくれる。
製作者個人の存在 や、出資者の存在、そんなものは千年の間に消失し、この戸張だけがある。
彼らは、小さき花の様に、もうどこかへ行ってしまった。
こういう膨大な気分を持ってみたい。
そんな風に感じたらこの戸帳が好きになった。
日本の仏像や美術を毎日観なくてはならず、
10年くらい前には、私は若すぎて、吐くくらい嫌になった事があった。
割に信心深い方ではある自分が吐くなんてびっくりした。若すぎたんだと思う。
別に今も畏敬の念を、人間の製作したものには抱かないけれど、
それができるまでを思うと、かなりぐっと好きになる。
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